アファンタジアと深い悲しみ

最新の研究によると、アファンタジアの人は、視覚的なイメージだけにとどまらず、聴覚、触覚、運動感覚、味覚、嗅覚、感情といった感覚すべてにおいてイメージする能力が低下している傾向にあるといわれています。今日は感情の部分について考えてみたいと思います。

感情の起伏

「あのさぁ、俺にも感情はあるんねんで?」と口にしたことが何度かあります。
私は、あまり怒らないタイプのようです。感情的になって大声で怒鳴る、相手を打ち負かそうとする、そのようなことは過去の人生で経験していないように思います。そのせいか、妻ともあまり喧嘩になりません。妻から私に対する不満を一方的に浴びせかけられて、それが一定のラインを超えて理不尽だったり私の尊厳を傷つけるものだったりすると、「うん。俺にも感情はあるんやから、そのくらいにしといてくれへんかな?」となります。『私は怒っている』という態度をみせて距離をとることでアピールすることはあっても、心の中ではすでに問題は解決していて、仲直りのタイミングを見計らっていることがほとんどです。なので、我が家の夫婦喧嘩は長くても2日もたずにほぼ終わります。アファンタジアなので感情の起伏が小さいからなのか、アファンタジアだから過去を引きずりにくいのか、あるいはその両方なのかもしれません。

悲しみの深さ

幸いなことに、私はまだ、身近な人との死別を経験していません。家族も仲の良い友人も皆、健在です。深い悲しみというものをまだ知らないのかもしれません。
有名人の自死などがあり、ヤフーニュースのコメント欄に『涙が止まりません』等のコメントを多数見るにつけ「ほんとに?」と思ってしまいます。不謹慎ながら。深い悲しみや喪失感によって涙が止まらなくなるほどに感情の抑制が効かなくなる状態と、スマホの画面を開いてフリック入力でコメントを書き込んで送信する感覚とが、つながらないのです。

若い頃から考えていたことがあります。いつか必ず、私にも母と死別する日が来ます。その葬儀の朝、喪服のネクタイを締めながら、私は何を想っているのでしょう。深い悲しみで、母との思い出が巡るだけで何も考えられない自分でありたいけれど、きっとそうではないような気がするのです。葬式のこと、参列する親戚のこと、費用のこと、お坊さんに別途渡すお金のこと・・・。自分が畏れているのは、その中で少しでも「めんどくせえな」という感情がよぎらないかということです。『心の底から悲しみに暮れる』ことなど、自分にはできないのではないか、そんな自分は人として失格なのではないか、と。

私とあなたは違うということ

アファンタジアが感情にも影響しているということを知ることで、私のそんな悩みは消え去ります。自分は、悲しみの感じ方が、そもそも他者とは違うのです。他の人よりも深く悲しむことができないから、私の心は貧しい、と考えるべきではなく、自分なりに、自分の振り幅の範囲内で、相手を想い、深く悲しめば良いのです。これはアファンタジアであるなしに関係しなくても、同じことだと思います。程度の差こそあれ、人の感性はそれぞれ違うのです。自分と違うからといって、その人が間違っているわけではなく、自分が間違っているというわけでもないのでしょう。

そのことを、私の場合、自分をアファンタジアだと認識し、自分の状態を考える中で気づくに至りました。また次の機会に書こうと思いますが、「喜びの感情」については他者よりも大きいようにも感じています。悲しみは小さく、喜びは大きく。だとしたら私は非常にお得な精神構造をしていることになります。きっと「自分は損をしている」と思って生きるよりもずっと良いことでしょう。
ここでもやはり、自分がアファンタジアであることを知れて良かった、と思うのです。

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